かたい話が続きましたので、閑話休題。
ほぼ事実ですが、若干想像も入っています。気楽にお読みください。(敬称略)
キヤノンの社名由来
観音菩薩にあやかる意味で「カンノンカメラ」と命名したことによる。ちなみにキャノンではなくキヤノン。
エプソンの社名由来
もとはセイコーの腕時計の製造を担った信州精機という会社。自社開発した小型軽量プリンター「EP(ELECTRIC PRINTER)-101」の子供たち(SON)でEPSON。
ミノルタの社名由来
「稔る田」が語源。コニカミノルタになった今のロゴ、3本の横線は稲穂を表す。
コニカの社名由来
明治時代初期に創業した「小西屋六兵衛店」から小西六写真工業、さらにコニカに。国産初のカメラやフィルムを開発した。さくらフィルムのブランドにちなんで、日野工場は「さくら町1番地」(さくら町は1番地しかない)
富士フイルムの社名由来
当時のトップブランド「さくら」フィルムに対抗するには「富士」しかない。ちなみに富士フィルムではなく富士フイルム。
キヤノン裾野
キヤノンは遷都候補になった静岡県裾野市に職住接近の開発拠点を作った。正面玄関からは真正面に富士山が見える。HPのレーザープリンタのOEMを一手に担っているため、当時のHP社長フィオリーナ女史が訪問した際は専用ジェットで羽田、そこからヘリで裾野。赤絨毯の上から富士山を眺めた。
ちなみに下丸子本社の旧工場にはエリザベス女王が訪問されている。
リコー海老名
リコーは2010年にリコーテクノロジーセンター新棟(C棟)を建設した。23階建108メートルの高層ビル。おかげで一挙に海老名駅で降りるリコー社員が急増し、富士ゼロックス社員と逆転した。
富士ゼロックス社員は送迎バスがあるが、リコー社員は駅から田んぼの中の狭い農道を歩いて会社に。コミュニケーションのため、フレックスを廃止したものだから、朝晩は農道に人があふれた。田んぼの地権者から土地を買い、農道を広げアスファルトで舗装し、ようやく渋滞は解消された。
今では再開発で「ららぽーと」ができ、当時からは想像できないおしゃれな街になった。
PODの原点はコンピュータの出力装置
富士ゼロックスのPOD生産拠点は旧NECの新潟工場。(2019年に海老名へ移転)リコーのPOD生産拠点は旧日立工機の勝田工場。キヤノンのPOD生産拠点はオランダから買収したOCE。これらの工場では昔、コンピュータの出力装置(連続帳票)を製造していた。
家電から事務機へ
川崎駅前のキヤノン川崎事業所は、元東芝柳町工場。海老名のリコーテクノロジーセンターは日立から買い取った。ほぼ同じ時期、キヤノン御手洗社長が経団連会長に、リコー桜井社長が経済同友会代表幹事に。コピー屋の全盛時代であった。
エレベーターのサイズ
キヤノンでは複写機の生産をライン生産から屋台方式に切り替え、生産性を向上させた。取手工場1階の巨大な工場で、小型複写機の横で、初代PODであるCLC5000を生産。1階でそのままトラックヤードに直結しており、縦移動のない理想的な環境であった。そのせいか機械サイズを考える必要がなくバカでかい機械となり、殆どの搬入先でエレベーターに乗らない状況に。
一方スクリーンのCTPは京都久御山工場の2階で生産。出荷のためにエレベーターに入るサイズが条件。そのため初期の段階からスクリーンのCTPはコンパクトサイズ。
スティーブ・ジョブスは一時期日本にいた。
APPLEを立ち上げたジョブズだが、経営は未経験。そこで当時のペプシコーラの社長ジョン・スカリーをヘッドハント「あなたは今からの人生を砂糖水を売って過ごすのか」という口説き文句が有名に。そんなスカリーに結局はAPPLEを追い出されたジョブズは新たなブランド「NEXT」を立ち上げる。このスポンサーがキヤノン。新川崎にあったツインビルにNEXTルームが設置され、ほぼ1年間ジョブズは日本にいた。
富士フイルムの壮大な計画
富士フイルムと富士ゼロックスが一緒になり、最初に開発したのが、JET PRESS 720である。富士ゼロックスの海老名工場で1号機が作られた。富士フイルムは2006年に米国のヘッドメーカーDIMATIXと英国のインキメーカーSERICOLを買収した。これによりインクジェットへの足掛かりを作って10年をかけてJET PRESS 720を世に出した。
DIMATIXのSAMBAヘッドは、水性顔料のワンパスヘッドの中では群を抜いた製品である。
写真工業発祥の地は新宿中央公園
新宿中央公園はもともと小西六写真工業(現コニカミノルタ)淀橋工場であった。日本初のフィルム、印画紙、カメラがここで誕生した。新宿副都心計画で淀橋工場は日野と八王子に引っ越した。

ゼログラフィー
複写機の原点は、XEROXである。ゼログラフィーと呼ばれる装置を開発したのは米国のチェスター・カールソン。物理学者としてニューヨークのベル研究所に勤務。のちにエレクトロニクス企業の特許部門に転職した。特許の申請には書類を何部も用意する必要があり、図を手書きで複製し、文章を何度もタイプする。これを簡単にできないかと考え、15年をかけて電子写真の基本原理を確立した。
1938年に初めての実験に成功し、1942年カールソンの電子写真法の特許が発効した。多くの会社に出資を求めたがことごとく断られる。その中にはIBMも含まれており、IBM最大の失策と言われている。Haloid Companyがライセンス契約を締結し1959年に世界初のコピー機Xerox914を発表し、社名もXEROXに改称した。
MACを成功に導いたパロアルト
1970年XEROXはパロアルト研究センターを開設した。そこでAltoというミニコンピューターを開発。ブラウン管を使ったビットマップディスプレイ、マウス、キーボードを備えていた。その後グラフィカルインターフェース(GUI)を整備していき、アイコンも発明している。しかし、この画期的な発明をXEROXは製品化しなかった。
あるとき、パロアルト研究所を訪問したスティーブ・ジョブズは、その素晴らしいGUIを目の当たりにし、Macintoshに搭載することを決める。後に「彼らは自分たちが何を持っているかわかっていなかった」と述べている。
OEM関係
販売面ではしのぎを削っているが、実はお互いにOEMで関係を持っている。代表的なところでいくと、A2サイズの複写機はリコーの独壇場で、どのメーカーから買ってもエンジンはリコー製である。村田機械の複合機は全てコニカミノルタ製、HPのプリンタはキヤノン製、などなど。
業界の結束は意外と固く、シャープや東芝テックが外資に売られそうになった時、最も抵抗したのは投資家や銀行ではなく、実はキヤノンやリコーなど日本メーカーであった。複写機の技術は、今や日本が世界ナンバー1である。技術流出を防ぐ必要があった。
リコーの水着
理化学研究所から感光紙の製造販売のため独立した理研感光紙がリコーの始まり。創設者の市村清は、その後三愛グループ、三愛、三愛石油、コカ・コーラウエスト、キグナス石油などを興した。
「人を愛し、国を愛し、仕事を愛す」というのが三愛主義である。コピー屋さんでありながら、水着や石油やコーラを扱っているわけだ。新しもの好きの気質が強く、ウナギの養殖を手掛けたこともあった。その水着の三愛も米国IKON社の負ののれん代のおかげで2018年4月、ワコールに事業譲渡された。
カルロス・ゴーンの怒り
みなとみらいの日産本社の海側には、かつてマリノスタウンという日産マリノスの練習場があった。この日産本社とマリノスタウンの間に、富士ゼロックスがR&Dセンターを建設した。おかげで日産本社の最上階にある社長室から、マリノスタウンが見えなくなった。怒り狂ったカルロス・ゴーンは自社にあった富士ゼロックスのコピー機を全て他社に変えたという。
ショールームは都心から工場へ
一時期、POD各社のショールームが品川に集結したことがあった。品川に行けば、一通りの機械が見れたので便利であった。しかし、都心の家賃は高い。そのため、キヤノンは下丸子、富士ゼロックスは海老名、コニカミノルタは八王子へと自社工場内にショールームを移設した。この中で圧巻なのがキヤノンのショールーム。1FにはOCEやVoyagerなどの大型マシーン。2Fに歴代のカメラや複写機が並び、特にカメラ愛好家にとっては垂涎の的であろう。
電子写真からインクジェットへ
2020年、京セラドキュメントソリューションズがPODデビューした。このTASKalfa Pro 15000C、従来型の電子写真ではなくインクジェットである。もともと京セラ鹿児島国分工場のインクジェットヘッドの技術は高く、アクチュエータを大型化した一体型ピエゾアクチュエーターを搭載している。PODとは言えないが、EPSONもA4換算100ppmの高速インクジェットプリンタ EPSON LX10050MFを発売し、PODも電子写真からインクジェットへ移行していくかもしれない。